Japaneseness

 気がつくと、私の海外生活も人生の3分の1を占めるほどになり、外から日本を見てかねがね感じている事を少しオーストラリアとの比較で書いてみたいと思います。

 一つは日本はまだまだ閉じた国だという事です。例えば非関税障壁がよく問題になっていますが、これらのほとんどは元々日本国内をコントロールするためのものであり、故意に輸入品を締め出すために作られたわけではないと思います。コメ問題は当然にして今時「これは国内問題だ」で済む事自体少ないと思いますが、日本は国際協力などの国際問題すら国内の枠で考えているように思えます。

 この閉鎖性は今に始まった事でなく、徳川の鎖国時代はもちろんの事、明治以降や戦後の復興期の「追い付け追い越せ」ですら、自分達の「遅れている」というコンプレックスを克服するためだったように思えます。追い付いたと見るや「自分は列強の一員だ」「日本は経済大国だ」と威張り始めるのは、今も戦前も似ていますが、これは間接的な証拠とは言えないでしょうか?

 さらに歴史を遡り、神話時代まで行くと、ここでも面白い事に気付きます。例えば聖書は神による世界の創造について書いています。他の多くの神話も同様で、世界はいかにしてできたかが述べられています。あの孤立したイースター島でさえ自分達の島を「世界のへそ」と呼んでいました。

 これに対して日本神話では、日本は神様が泥をこねくりまわして作った事になっていますが、はてその他の世界はどうしてできたのでしょう(泥からできた土地に、北海道や沖縄が含まれていたようにも思えませんが)?このように日本は昔から日本の事しか考えていなかった、とするのはいささか強引でしょうか?(日本しか創造しなかったことの解釈として、筆者は比喩的に「二人の神様は実は既知の文明社会である朝鮮半島に立っていた」ので、世界を創造する必要はもうなかったと読んでいますが、右翼に狙われるのでこの議論は深入りしません。)

 この閉鎖性は実は程度の差こそあれどの国にも存在するし、日本に国際社会で通用する人物がいないか、と言えばそんな事はありません。欧米の平均的国民が日本国民に比べて国際化しているとも思いません。他民族に接する事に慣れているのは事実ですが、それに寛容であるかどうかはまた別問題です。

 日本の問題は社会をリードしているはずの政府や官僚に、国際感覚が足りない事だと思います。批判する側のマスコミや民間団体、また野党も、同じ土俵上から出てはいないように見えます。戦争であれ平和であれ国や民族間の関係が常に重要だった国々と、良くも悪くも辺境の島国で、歴史上の長い間一人で生きて来られた日本とでは、国際センスが異なるのは致し方ない事です。

 この意味で面白いのはオーストラリアで、この国民は国際センスを持ちながら辺境に国を作ってしまったわけです。日本同様あまり関係の無い第一次大戦への参加などは、国際社会の一部でありたいという欲求の現れで、日本とは動機が全く異なっています。

 では国際センスに欠ける日本に筆者が悲観的かと言うと全く逆です(私は何事にも本来楽観主義者です〉。今までの欧米主導の国際センスのかなりの部分は実は nationalism と、国あるいは民族の興味と利益の措抗に根差していると思います。ヨーロッパでこの壁を乗り越える動きがEUだと思いますが、これはヨーロッパというアイデンティティを超えるとは思えません。日本や他の遅れて国際社会に入って来た国には、逆に偏狭な nationalism や民族主義を乗り越える可能性が残されている、と言ったら楽観的過ぎるでしょうか?

 もう一つかねがね感じているのはやはりアイデンティティの違いです。例えばオーストラリアで王制を廃止し、ユニオン・ジャックの入っている旗を変えようという動きは、現在の制度やシンボルが多くの国民のアイデンティティを反映していないためです。つまりここでは個人のアイデンティティが先にあり、国は多数のアイデンティティの反映であるべきだというのが議論です。オーストラリアでの古い世代の多くは自分はイギリスの一部だと言う意識をいまだに持っています。

 何でも1949年までオーストラリア人という国民は法的には存在しなかったそうで、1984年までイギリス、アイルランド、ニュージーランド人は広義のイギリス人として、国籍を変えないままオーストラリア人と同じ権利を認められました。これらの人は今でも同じ権利を保障されていますが、面白いのはイギリス人であることにこだわっている人がいる一方、オーストラリアに帰化する時の儀式で女王に対する忠誠を誓うのを嫌って、オーストラリア国籍を取らずにいる人も多い事です。どちらの理由にしろこの人達もこの人達なりの自分のアイデンティティを守っているわけです。

 これに対し日本は、過去常に権力者あるいは政府が個人に対し特定のアイデンティティを持つよう強制、あるいは暗に求めて来ました。根っこが儒教にあるのか長かった封建社会にあるのかは知りませんが、戦前戦中の教育でそれが強化され、その後も疑問とされずに来てしまったような気がします。

 オーストラリアと日本に共通する事は「独立記念日」が無い事です。日本は大和の国かその前身が日本列島の「征服」に着手して以来、「国内」での騒乱や海外への侵略はあったものの一応連続しています。オーストラリアは他の旧植民地の国々のように独立を経験していません。オーストラリアでもっとも重要な記念日は南北アメリカのコロンプス・デイにあたるオーストラリア・デイです。オーストラリアはいくつかの植民地政府が今世紀初めに連邦を組んだだけで、未だに各州にそれぞれ女王の代理である総督がいます。これがオーストラリアの不安定なアイデンティティの原因のようですが、日本のように強固すぎるのも考え物です。